巻頭言

大学はどこにむかうのか?

三木 義一(青山学院大学 学長)

 10年後、20年後、大学教育の様子はどうなっているのだろう。教室で講義がなされているのだろうか? それとも講義は自宅に配信されるものをみておくようになり、その内容を確認するためのディスカッションが中心になるのだろうか。自動翻訳の飛躍的な進化が、日本語の講義を同時に他言語に翻訳して、外国人学生に聴講可能にするのだろうか、それとも大半の授業が英語による授業になっているのだろうか?
 このような予想はもはや無意味かもしれない。過去にはないスピードで、情報通信技術(ICT)が変化しはじめているからである。それなら、いっそのこと、“the best way to predict the future is to invent it.”(Alan Kay「未来を予測する最良の方法はその未来を創ることである」)の精神で行ってみてはどうだろうか。
 そしてAIに関する研究状況を概観してみると、理工学分野では、先端的研究が競って行われているが、文系・社系分野からの研究がまだ端緒についたばかりのように思われた。そうであるならば、文系・社系学部が多い青山キャンパスにシンギュラリティ研究所を設立するのが大学らしい挑戦になるのではないか。シンギュラリティ(技術的特異点)とは、様々に言われているが、ここではAIの創るAIの方が人間の創るAIよりも性能が良くなり、人間がおいて行かれる時点をさすとしておこう。一般には2045年ごろに到達するといわれている。シンギュラリティの発生を否定する研究者も少なくないが、社会が劇的に変化することは誰も否定できない。
 すでに、我々は、SNSの劇的進化が民主主義をポピュリズムに変質させ始めていること、AIによる労働環境の変化が所得格差の拡大をうみだしかねないこと、自動運転を前提にした街作りが必要になってくること、自動翻訳や双方向通信などの飛躍的な進化が大学の授業を大きく変えうること、等々を感じ始めている。
 刺激に満ちた変化が目の前に押し寄せていることになる。これらの変化が人間や社会にどういう影響を与え、私たちがそれにどう向き合うのか、まさに、文系・社系学問分野にとって格好のテーマではないか。また、文系・社系の学問が、過去の文献だけに依拠して、人間や社会のあり方を論ずるだけの学問ではないことを積極的に証明していく必要もありそうだ。そこで、まず研究所主催で、前期にAI関係の最前線で仕事をされている方々の講演を聴き、後期から、本学教員による学生向けの「単位にはならない」連続講義を企画した。単位にはならないのに180名の学生が申し込んできた。講義テーマは「仮想通貨ならびに人類の滅亡」、「AIと教育世界」、「言語と人工知能」、「AI×思想」、「AIと製造物責任」、「AI時代における必須のスキル」「AI時代における考えるヒント」、「AI時代における理想の学習環境」などである。このような企画に協力してくれる文系・社系の教員がいたこと、単位にならないのに積極的に参加しようという学生が大勢いたことは、大学の底力を示しているようで、大変心強かった。
 文系・社系中心の大学とみられている本学が、文系・社系の観点からこのような問題に取り組むのは、次のような願望を持っているからである。文系・社系の学問領域は、この間、経済界等から「役に立たない学問」として非難されてきている。確かにすぐに役立つようなことはないだろう。しかし、長い目で見れば、この分野の研究が人間社会の基礎を支え、AIと優しく共存できる、明るい社会を創るためには、一見役立ちそうもない文系・社系の学問も必要であり、そのような研究が大学で行われていることに社会の度量の広さが示されている、という認識が広まってほしい、という願望である。単なる願望に止まるか、そのような認識が現実に広まっていくか、それは今後の研究所の取り組み及び各大学の取り組みによって変わっていくだろう。


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