教育学における情報技術の活用

早稲田大学における教育学教育と情報活用


鈴 木 慎 一(早稲田大学教育学部教授)



1.情報技術と教育学

 数年前、教職課程における情報教育の具体的なあり方を検討する私情協の委員会に参加したことがあり、当時は情報技術の習得が中心であったので、情報についてまったくの素人であった私は、しばしば戸惑いを感じた。
 視聴覚教育から教育工学へ、専門研究者の主張と具体的な大学内部の「教育方法」が変わっていく過程で、私の関心は「見ること」にあり、その重要性について思いを巡らせていた。しかし、その答えを導くはずの「見え方、見方」が、先生役の者、教えているはずの当事者に実は見えてこないのである。それでは説明に具体性がなく説得性もない。私が情報技術と教育という言葉に接してまず夢想したことは、歴史的社会的実在の構造とその変動を可視化することであった。
 発達という概念も、教育学の教育ではしばしば用いられ、心理学に限らず、多くの教科書や論文に出てくる言葉である。この言葉も、喚起するイメージが多様で、実は必ずしも明晰な概念というわけではない。社会的環境や文化的環境との相互作用を、できることなら「見える」ものにしてやりたい。そういう願いを教育者としては持っていたので、可視化の研究計画に加えてみてはどうかと提案してみた。
 教育学の講義では、講義者によって違いはあるものの、多少とも次のような基礎的関係をどこかで念頭においている。
モノ対モノ関係
モノ対ヒト関係
ヒト対ヒト関係
 この関係の派生的な諸関係は学問の諸分野で論議されているが、その相関は極めて見えにくい。ところが、バーチャルリアリティが技術的に可視化されると、見えにくかったそれらの相関を具体的にビジュアライズすることができるようになるだろう。統計数値以上に具体的に「何か」を示せるのではないか。
 ヒトゲノム科学がもたらす人間についての知識がどのようなものになるのか、専門外の私には見当はおろか想像もつかない。しかし、それらの成果を吸収しない「教育の学」はナンセンスになるのではなかろうか。そう考えると、情報技術とその背後にある情報科学や脳科学等に十分配慮した教育学教育の開発と体系化が必要なのだという思いが頻である。


2.教育学科における新しい学習環境の活用

 大学の情報化時代に対する対応はにわかである。早稲田大学も例外ではなく、さまざまな対応策が取られている。大学内の情報体系の整備と同時に、海外の諸大学との間で各種の連携が試みられている。インテリジェントビルが建てられ、教材準備と技術の双方が備わっている教員であれば、そこでの授業は大いに新しいものに生まれ変わる。実際、そのような授業がいくつも始まった。
 このような大学における教育学習状況の変化の中で、すばやく新しい状況に適応しているのは学生たちである。教育学科の在学生も少数の者を除くと、皆この新しい学習環境を積極的に利用している。そしてそこからは、私の世代に属するものが想像もしなかったような学習と研究の成果が生み出されつつある。そこでの一つの特色は、「共同の学習」と「国境を越える学習」である。以下にその事例を紹介する。

(1)事例―1

 中学生のころから天文少年で、独りで観察していたH君は、あるとき天体望遠鏡に興味を示された書道の先生に望遠鏡の視野を見せたことによって、先生のとても嬉しそうな表情に励まされ、自分も嬉しくなった。そして彼は、理科離れが進んでいると言われる今日の子どもたちに、何とかして自然を学ぶことの楽しさを知らせたいと願い、始めたことが天文教育に携わる人々との共同研究であり、そのネットワーク作りであった。
 先例としてH君が学んだものは、カリフォルニア大学バークレイ校で試みられていたHOU(Hands-On Universe)という、高校生のための理科教育プログラムである。現在、このプログラムには、アメリカ、スウェーデン、オーストラリア、ドイツ、日本が加わっている。このプログラムでは、インターネットを通じて、遠隔地にある天体観測用望遠鏡を用いてネットワークに参加したものが自分自身の観測を行うことができるようになっている。用意された画像処理ソフトを使ってデータを処理し、データの可視化や解析が行える。
 用意されているプログラムの内容は興味深く、いくつかの作業課題、例えば、木星の運動を追跡すること、銀河の写真から超新星を見つけ出すこと、散開星団から恒星の進化について考察することなどは、単に主題として興味深いばかりではなく、作業が周到に教育的に計画されており、教育学を学ぶ学生にとっては、実地に学習計画やカリキュラムの開発と評価を行い、かつ、理論的に考えるよい機会になっている。さらに、取り上げられている内容に即しつつ、既存の諸教科を学ぶように構成されているところから、今日言うところの総合的学習とは何かを同時に考え学ぶことができる。
 このプログラムを体験しつつあるH君は、作業が生徒の興味を中心にしていて、結果的に生徒が新しいことを体験することができるようになっており、そのことがこの共同学習のなによりの特徴だと評価している。教員は、そこでは協力者なのである。一方的に教え込むという古いタイプではない教師がそこには確かに活動している。H君の体験は、教育学演習の中で、従来の専門諸分野(教育内容論、教育方法論、教師論等)を本質的に再検討する機会と内容をH君のゼミ仲間に供するだけでなく、指導にあたる私にも貴重な研究動機を供してくれている。

(2)事例―2

 Fさんは、自分が韓国国籍であり、韓国人の日本と日本人に対する感情、日本人の韓国と韓国人に対する感情の具体的なありようを見つめて、そこから二つの国々の民衆がどうすれば本当に理解しあえるかを探りたいという問題を提起した。日韓歴史教科書問題研究会等の専門家による研究の積み重ねを学びながら、Fさんはインターネットによる様々なアプローチを試みた。
 日本の学校と韓国の学校の間に情報交流の提携が結ばれている場合や、研究所間の交流を含め、事前に韓国の学生や研究者との間で意見の交換を行い、その後、実際に韓国を訪れ、約半年の間、韓国の民衆の間に溶け込むように工夫し、努力し、貴重な体験と記録とを持ち帰った。卒業論文発表会で、Fさんが学生仲間に与えた感動は、聞いたものにも、聞かせた当人にも、終生忘れがたいものになったと思う。もし、この発表が、韓国側の若者や教師あるいは市民が同時に参加できる方法を駆使して行われていれば、その感動はもっと深められたに違いない。
 この場合も、私たちがエスノメソドロジーと呼んでいる比較教育研究方法の活用と修正について、情報の立体的総合的活用(多くの代理経験とかつて呼んだものが含まれている)が、どれほど重要であったかを私たちに教えた。


3.おわりに

 私たちが青年期に研究に携わり始めたころ、1ドルは360円に固定され外貨は割り当て制で、自由に海外へは出られなかった。実地調査法として新しい方法が紹介されても、文献の上で学ぶにとどまっていた。それはどういう体験を研究を志すものに与えるものなのか、どんな洞察を保障するものなのか、ただ、想像するにとどまっていた。今、若い人々は自由に海外に出ることができる。研究の上でも、教育の上でも、隔世の感が著しい。新しい方法は、直ちに実証してみることができる。その方法を修正したり発展させたり、さらには、批判的に克服することもできる。しかしそういう時代ではあっても、情報の意味と様式とそのあり方が変わった条件の下では、情報に近づき、情報を選択し、情報を組み立て、何をおいてもその情報を駆使することが不可欠である。
 先にも触れたように、大学の内部では情報化社会への対応に忙しい。その新しい環境を十分に活かし、積極的に学びつつある教育学専攻の若者たちを励まし続けていくためには、情報活用能力育成の充実と開発と展開が教育学の教育・研究の領域においても求められる。どのような研究開発が進むか、心から期待したい。


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