語学教育における情報技術の活用


ドイツ語教育及び研究におけるLaTeX活用の試み


永田 善久(福岡大学人文学部助教授)



1.はじめに

 本稿では、福岡大学人文学部ドイツ語学科の「専門教育科目」として1999年度から2001年度に亘り筆者が担当したパソコン利用の授業(延べ114名が受講)について、とりわけ「エディタとLaTeXを用いた構造化文書処理」という項目に焦点を絞り、報告させていただきたいと思います。


2.授業内容

 現時点でのドイツ語学科の専門教育科目には、残念ながら情報技術関連のキーワードを直接科目名に冠した授業はありません。こうした状況がもたらす授業運営上の問題点については「おわりに」で再度言及しますが、筆者は「ドイツ事情概論」・「ドイツ事情特講」というその都度異なる科目名の下に、次のような内容を取り扱ってきました。これらは週一コマ、通年約26回の授業の中で一通り展開されてきたものです(ただしLaTeXとWebpage関連については2000年度から)。  なお、学生へのLaTeX関連課題は「教師が用意したソースファイルを基に、LaTeX及びBIBTeXの論理マークアップ方式を用いて、概要・目次・参考文献一覧・脚註・文書内相互参照等を含む構造化された論文スタイルの文書(日本語・ドイツ語混在)を作成せよ」といった内容のものでした。


3.多言語用LaTeX処理系の整備

 もっとも、上のようなLaTeX課題を学生に課すことができるようになる前に、理学部・工学部の同僚による協力を得て、約半年の時間をかけて既存のLaTeX環境に手を入れ、「多言語拡張されたLaTeX処理系」を構築しておきました。現時点では、日本語・英語・米語・ドイツ語(新旧両正書法対応)・フランス語・ギリシア語・ロシア語を「混在同時処理」できるLaTeXシステムが、総合情報処理センターが管理するWindowsNT機60台・Linux機220台の端末で稼動しています。商用メディアパッケージを基本としたこの多言語処理用LaTeXシステムに関しては、その詳しいインストール法や使用法マニュアルをも含め、すべてWeb上で公開しています。


4.なぜLaTeXなのか

 さて、「語学教育における情報技術の活用」というテーマの下にLaTeXというソフトウェアを取り上げる理由は、このソフトウェアが、「論理的構造の点でも見栄えの点においても説得力に富むドイツ語(さらには多言語混在)文書を作成できるようになることで、最終的には高度な自己表現も可能となるよう学生を自立させてくれる」力を備えているからです。LaTeXの学習は「自ら能動的に情報技術を活用」する方向に学生を導きます。
 また、LaTeXはこれまで手書きあるいはワープロ使用等によってなされてきた研究や教育における知的営為プロセスそのものに取って代わろうとするものではなく、こうしたプロセスを個人レベルにおいても共同レベルにおいても「より効率的・生産的かつ高次」に変性し得る極めて大きな潜在力を秘めているという点もぜひ強調しておきたいと思います。
 総じて言って、LaTeXは「情報技術時代における理想的な語学文学系文書処理システム」と形容できるように思われます。このように主張し得る根拠は次の三点にまとめられます。

(1) LaTeXを用いれば学術文書が要求するレベルにおけるテクスト処理・多言語処理の精密性が(文書の書き手がそれと意識しなくとも)自動的に実現される。
(2) LaTeXはOSに依存しないし、その入力ファイルは単なる「テキストファイル」であるから、文書の互換性が保証されている。また単なるテキストファイルであるがゆえに、LaTeX文書ファイルに含まれる文字列の高次検索・加工等も極めて容易である。さらにLaTeXファイルはHTMLそしてPostScriptやPDFファイル形式との高親和性を有するため、Web上でも抜群のポータビリティを発揮する。
(3) LaTeXでは地の文に「文書の論理構造」を記すコマンドをマークアップしていく方式を採用していることから、書き手は文書を視覚レベルではなく常に「論理レベル」で捉えることを要求され、これにより知らず知らずのうちに物事を論理的・明快・簡潔に表現する習慣と能力とを身につけていけるようになる。LaTeXはこのように、これを用いる者の知的精神の育成に、一見目立たないけれども深くて大きな好ましい影響を及ぼすから、広い意味での知育用ソフトウェアとしても優れているといえる。


5.Grimm_Database

 上に挙げたLaTeXが持つ優れた特性のうち、特に最初の二点の例証になっていると自負するものがWeb上で公開している「Grimm_Database」です。現時点では、学生のアルバイト協力を得て作成した『グリム童話集最終版』しか完成していません(ただし、多言語混在テクストを正確にデータベース化するための方法論的検討は既に済ませてあります)が、この全文テクストデータベースでは、「教授用あるいは自習用テキスト作成」及び「テクストのデータ解析」といったそれぞれ異なる位相に属する二つの知的活動を一つのシステムの下で統合的に展開することが可能となっています。
 具体的には、テクストデータをLaTeXで処理することによって「行末における自動ハイフネーションや合成語における合字抑制等々」といったドイツ語正書法に関わるルールを正確に反映させた組版出力を得ることができますので、こうして必要な箇所のみを即座に「専門印刷レベルのハンドアウト用テキスト」として取り出せます。しかもその際、A4判あるいはB5判用に印刷させるのも、一段あるいは二段で組むのも、本文5行毎に自動的に行番号を振るのも、書き込み用テクストとして三行取りで本文を組むのも、自由自在です。一方で、これをPerlのようなテキスト処理系プログラムや高機能なテキストエディタに渡すことによって、中身を高度・高速に分析することも可能となっています。
 いずれにせよ「誰でも」これを「必要なら丸ごと入手」でき、それぞれの目的に応じて「自由に利用」できる、というのがGrimm_Databaseが持つ大きな特徴です。こうしたことが可能なのも、LaTeXが「オープンソース」のソフトウェアであり、またその入力ファイルが徹頭徹尾テキストファイルである、という点に基づいています。Grimm_Databaseは、公開以来、ドイツ国フライブルク大学の「古典テクスト語彙研究」プロジェクトチーム、及び、米国のEast Bay Technologies社から「これを有効利用させてもらった」との報告を受けています。なおGrimm_Databaseページ内には、Web上のみでのデータベース利用者の便宜も考慮し、正規表現をサポートしている高機能な検索エンジンを設置してあります。


6.おわりに

 これまで何となく調子の良いことばかり書いてきましたが、実際の授業運営に当たっては、教師の要求する情報技術習得のレベルまで学生達が十全に到達できているわけでは必ずしもない、という現状についても正直に報告しておかねばなりません。これには教師としての筆者の力不足という要因もあるでしょうが、一番大きな原因としては、(情報技術関連)授業間の協調的連携がほとんど取られていない、ということが挙げられます。情報技術が持つ潜在力を真剣に吟味し、これをこれからの語学教育の中にいかに取り入れていくのか(あるいは逆に「いかないのか」)、という逼迫した問題提起に関して、残念ながら肝心の教師サイドに責任ある意志決定に基づいたコンセンサスが一向に形成されない、という現実があります。根底には教師側における「情報リテラシー」の問題も横たわっているように思われます。カリキュラム一つを取ってみても、既存の体制に変更を加えることに関して、公の場での議論には上らない相当の抵抗が厳然として存在します。こうした経緯から、情報技術関連の科目はあくまで専門科目の「枠外」に「任意選択科目」として消極的に置かれるに留まり、従って、ドイツ語や多言語処理に特化した情報技術習得の授業を専門科目の「枠内」で行おうとしても、これはそうした志向を持つ教師が個人レベルで細々と実践できるに留まっています。情報技術関連科目を任意履修しているに過ぎない学科学生達には、情報技術に関する一定レベルの基本的知識と技能さえも前提とすることはできません。上に挙げておいた授業内容の中で、その都度「タッチタイピング」からスタートせねばならないのは、このためです。これは学習における効率性及び目標への到達という点で大きな障害となっています。こうした問題を解決していくことが当面の大きな課題です。なぜなら、私自身は、いかなる学問分野であれ、これからの情報技術社会と如何に関わっていくのか、という展望を真剣に切り開いておかないことには、学問の継承発展も教育の伝承も有り得ない、と考えているからです。
 最後にURLを掲げておきます。本稿で紹介させて戴いた内容はすべて以下のページを基点にアクセスできます。忌憚のないご意見・ご批判をいただけましたら幸甚です。


関連URL
http://www.lg.fukuoka-u.ac.jp/~ynagata/


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