人材育成のための授業紹介●化学

教育用分子軌道計算システムeduDVを利用した電子についての基礎化学教育

坂根 弦太(岡山理科大学理学部化学科准教授)


1.はじめに

 化学は物質についての情報の世界です。人類が知り得た化学物質の数は毎日増え続けています。2010年2月1日時点で有機・無機化合物が約5,196万種類、バイオシーケンス(タンパク質のアミノ酸配列や遺伝子の核酸配列など)が約6,158万種類、合計すれば約1億1,354万種類にもなります[1]。それらすべての化学物質は周期表[2]の112種類の元素のうち、天然に存在している約90種類の元素からできています。1億1千万種類を超える膨大な種類の化学物質も、周期表のたった約90種類の元素の組み合わせに過ぎません。英語におけるアルファベットの如く、化学におけるアルファベットは元素と言えます。
 化学物質は(単原子分子・イオンを除いて)何らかの原子が複数個結合したものですが、プラスの電荷を持つ原子核同士がなぜ反発せずに結合できるのか、これはマイナスの電荷を持った電子が介在しているおかげです。ある物質とある物質を混ぜたときに反応しない場合もあります。なぜ結合しないのか、これも多くは電子の仕業です。
 そもそも原子や分子は、人間の目に見える光(可視光)の波長よりも小さいため、光学顕微鏡でいくら拡大しても目で直接見ることはできません。しかし私たちは、分子がどんな原子がいくつどのように結合したものか、例えば水分子は折れ線型、ベンゼン分子は六角板状型などと、分子の形を知っています。化学の本質は千姿万態の電子の世界です。化学の反応も、物質の色も、ミクロの世界の電子の立ち居振る舞いを、我々人間はマクロに見ているに過ぎません。目に見えない原子・分子の世界も、電磁波を原子・分子に照射したり、原子・分子から発せられる電磁波を観測したりして、マクロの人間はミクロの化学の世界から情報を得ています。電磁波を受け取ったり放出したりするのも、多くの場合は原子・分子における電子です。
 化学の土台となる電子の本当の姿を理解するには、量子力学に基づく原子や分子の電子状態を理解しなければなりません。これを取り扱う量子化学は、理系の大学に入った学生にとって基礎化学の中でも際立って学習が困難な項目です。高等学校で学んだラザフォードの原子モデル(図1)のイメージを捨て去り、新たにシュレーディンガー方程式なるものを学び、波動方程式の解である波動関数(三次元空間内の物理量分布)およびそのエネルギーを、電子の本当の姿としてイメージしなければなりません。大学教員にとって、主量子数、方位量子数、磁気量子数で決まる周期表の各元素の原子軌道、およびその原子軌道を線形結合して得られる分子軌道の三次元的なイメージおよびそれらのエネルギー準位について、限られた講義時間内で学生に把握させることは、教科書や黒板への板書だけでは極めて困難です。
 例えば2px軌道を例にとると、教科書[3]の図(図2)は、本稿で紹介するシステムで描いた図(図3)とはかなり違っています。

図1 高等学校で学ぶ電子のイメージ
図1 高等学校で学ぶ電子のイメージ
 
図2 大学の教科書に掲載されている波動関数
図2 大学の教科書に掲載されている波動関数
 
図3 本稿のシステムで計算・表示した波動関数
図3 本稿のシステムで計算・表示した波動関数

2.教育用分子軌道計算システムeduDV

 物性物理や材料科学分野で研究の第一線で使われている分子軌道計算プログラムにDV−Xα法があります[4]。周期表全元素を同じ精度で取り扱うことができ、比較的大きな分子であっても普通のパソコンで短時間で、かつ精度よく電子状態を計算できます[5]。最新の実行ファイルはWebからダウンロードし、教育研究用には無償で使えます[6]。さらにシェアウェアである秀丸エディタ[7]をインストールし(注)、泉富士夫氏が開発した秀丸エディタマクロ集「DV−Xα法計算支援環境」[8]を組み込むことにより、GUIでDV−Xα法が利用できるようになります[9]。泉富士夫氏、門馬綱一氏が開発した「結晶構造、及び電子・核密度等の三次元可視化プログラムVESTA」[10]をダウンロード[11]・インストールすれば、DV−Xα法で計算した波動関数、電子密度、静電ポテンシャルなどを三次元可視化できるようになります[9]
 量子化学計算に熟練した研究者が使用するには以上の環境で十分なのですが、大学1・2年次生に講義時間内で操作させるのは無理です。計算する分子の原子座標を手計算で求めたり、分子が属する点群に基づく対称軌道ファイルを用意するなど、数学の幾何や群論の知識など予備知識がなくては始まりません。DV−Xα法のプログラムの使い方も学習する必要があります。
 そこで筆者は、限られた講義時間内で高校生でも大学生でも、何の予備知識もなしに、いきなり周期表元素の原子軌道や、教科書に掲載されている様々な分子の分子軌道を自ら計算して、電子(波動関数)の形状やそのエネルギーを眺めることができる「教育用分子軌道計算システムeduDV」[12]を開発しました。マニュアル[13]に従ってダウンロード[14]・インストールすれば環境は整います。岡山理科大学情報処理センターでは、学生実習用の全パソコンにDV−Xα法[6]、秀丸エディタ[7]、DV−Xα法計算支援環境[8]、VESTA[11]、eduDV[14]をインストールしており、筆者の担当する講義・実習で大いに活用しています(無償で環境構築できます)。


3.講義での使用例

 Windowsパソコンの基本的な操作は学生全員が習得しています。パソコン実習室で一人一台のパソコンを用い、講義を進めていきます。本学の学生実習用パソコンは起動するたびにハードディスク内容が初期状態に戻りますので、秀丸エディタを他用途で使う場合を想定し、DV−Xα法計算支援環境のC:/dvxa/Macros/SCAT.regを秀丸エディタで読み込む作業は毎回行う必要があります。秀丸エディタのその他(O)→設定内容の保存/復元(U)...でSCAT.regを読み込むと、教育用分子軌道計算システムeduDVが実行できる状態になります。
 秀丸エディタのウィンドウには、DV−Xα法関係の多種多様なプログラムがボタン(ツールバー、ファンクションキー)、プルダウンメニュー、ポップアップメニュー(ユーザーメニュー)、キーボード・ショートカットという形で登録されており、ユーザーはGUI操作を通じて一連の計算・可視化を実行できます。講義ではeduDVボタンとVESTAボタンのみを使います(図4)。

図4 eduDVボタンとVESTAボタン
図4 eduDVボタンとVESTAボタン

 eduDVボタンを押すと、20項目のプルダウンメニュー(図5)が現れます。eduDVには、単原子、単原子イオン、分子、錯体、錯イオンの形(点群対称)の違いによる別個のシステムが20種類用意されており、システムを選択・起動した後は、必要最低限の情報(原子番号や原子間距離、必要に応じて結合角や酸化数)を会話形式で入力していくだけで、DV−Xα法本体プログラムおよび各種ユーティリティプログラムが全自動で実行されます。対称軌道ファイルがシステムに内蔵されているため、分子軌道の縮退もきちんと取り扱われ、分子軌道には教科書と同様の正式な名称が付与されます。

図5 eduDVのプルダウンメニュー
図5 eduDVのプルダウンメニュー

 VESTAボタンを押すと、原子群の情報(原子番号と原子座標)に基づいて構造モデルを棒球表示できます。さらに計算した波動関数、電子密度、静電ポテンシャルの三次元ピクセルデータを読み込み、構造モデルに加えて波動関数の等値曲面・断面図や静電ポテンシャルマップ(等電子密度曲面を静電ポテンシャルの大小により彩色した図)などを容易に作成できます。また複数の三次元ピクセルデータを差分・加算表示することも可能で、差電子密度、有効スピン密度などの等値曲面・断面図も描画できます。さらに三次元ピクセルデータを自乗して表示することもできますので、波動関数を自乗することにより電子の発見される確率、すなわち電子密度を計算・表示できます。


4.学生の反応と教育効果

 学生からまず上がる声は、「波動関数って美しい!」という感想です(図6)。周期表の全元素の全原子軌道を容易に計算・三次元可視化できますので、炭素の2p軌道(3種類)、銅の3d軌道(5種類)を手始めに、臭素の4p軌道(3種類)、鉛の6p軌道(3種類)、金の5d軌道(5種類)、ウランの5f軌道(7種類)など、手当たり次第に計算して眺めることができます。90分間の講義では3、4種類の元素の原子軌道を見ていくだけで時間切れになりますが、やり方は簡単ですので、興味を覚えた学生は講義時間外の好きなときにパソコン実習室でこの操作を楽しむことができます。

図6 ウランの5fz3原子軌道の等値曲面の断面図
図6 ウランの5fz3原子軌道の等値曲面の断面図

 次に学生からあがるのは、「教科書と同じ結果の分子軌道計算が簡単にできる!」という声です。水素分子はもとより、酸素分子、窒素分子、メタン分子、アセチレン分子、水分子、アンモニア分子、ベンゼン分子など、無機化学や物理化学や量子化学の教科書に載っている分子軌道エネルギー準位図と同じ結果が容易に得られます。しかもその分子軌道それぞれについて、VESTAですべて三次元可視化できます。
 現在の標準的なパソコンは、一昔前の大型計算機に比べて比較にならないほど高性能です。大学にある計算機資源(パソコン)に教育用分子軌道計算システムeduDVその他一式のプログラムを導入することにより、基礎化学教育で学生に嫌われがちな量子化学入門を、遊び感覚で正確なイメージの得られる教育内容に変革できます。

 アカデミックフリー制度があり、学校内に設置しているパソコンで学生が利用する場合は、申請により適用される。
 
参考文献および関連URL
[1] http://www.cas.org/cgi-bin/cas/regreport.pl
[2] http://www.chem.qmul.ac.uk/iupac/AtWt/table.html
[3] 荻野博,飛田博実,岡崎雅明:基本無機化学. 第2版, 東京化学同人, 2006.
[4] H. Adachi, M. Tsukada, C. Satoko, J. Phys. Soc. Jpn., 45, 875 ,1978.
[5] 足立裕彦監修:はじめての電子状態計算. 三共出版, 1998.
[6] http://chem.sci.hyogo-u.ac.jp/hajimete/download.html
[7] http://hide.maruo.co.jp/software/hidemaru.html
[8] http://homepage.mac.com/fujioizumi/visualization/VENUS.html#assistance_environment
[9] G. Sakane, K. Momma, F. Izumi, Bull. Soc. DV−Xα, 21(1&2), 13, 2008.
[10] K.Momma, F.Izumi, J.Appl. Crystallogr., 41, 653 (2008).
[11] http://www.geocities.jp/kmo_mma/crystal/jp/vesta.html
[12] 坂根弦太: 日本教育情報学会第22回年会(岡山)論文集. 2D3, 198, 2006.
[13] http://www.chem.ous.ac.jp/%7Egsakane/HidemaruDV/HidemaruDV.pdf
[14] http://www.chem.ous.ac.jp/%7Egsakane/fun/index.html#edudv

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