巻頭言

「学ぶことの楽しさ」を学ぶ

石井 淳蔵(流通科学大学学長)

 授業やゼミの中で学生が「なるほど、よくわかった」、そして「目から鱗が落ちた。新しい地平が開けた気がする」という『学びの喜び』の声を上げる。こうした『学びの喜び』の声を目指して教育が行われる。そのために、教員は、テキストや資料を準備し、1時間半声を涸らして知識を伝える。だが、いくら体系だった知識であろうと、一方的に伝達するだけでは、学生から『学びの喜び』の声を得ることは難しい。
 私たちは、言葉に表現された以上のことを知っている。そして、教師はいつも、言葉に表現される以上のことを教えたいと思っている。例えば、素人目には何の変哲もないレントゲン写真の中に、熟達の医師は病気の兆候を見る。その熟練は、しかし、どのようにして、初学者に教えることができるのだろうか。「熟達した医師がもつ熟練に関わる知識」を、完全に教えきることは難しい。「教え/学ぶ」関係においては、どうしても、教えきることができない残部が生まれる。
 そのギャップを埋めるには、学ぶ側の意欲が不可欠である。意欲のある学生のみが、そのギャップを克服し知的な喜びを享受する。その意味では、教員が授業を始めるにあたって、第一に試みなければならないことは、学生たちの「学ぶ意欲」を育むことである。
 それとともに、学生たちに「自分の問題として関わることができるような状況を創り出す」ことが重要だと思う。いろいろなやり方がありそうだ。
 アメリカのある大学の授業では、1回目の授業の最初に、受講生たちに対して「あなた方は、今、何を学ぶためにこの席に座っているのですか?」と質問するという。これは大事な工夫に思える。学生がその質問にどう答えるかはともかく、学生が授業を受けるにあたって、イヤでも何かしら問題意識を持つよう強いるものだ。どういう反応になるのか、試してみたい工夫だ。
 個々の教員の工夫も必要だが、大学として何ができるか考えないといけない。流通科学大学では、創設者の中内功氏の理念を受けて、現在でも「実学」を標榜している。「実学」というと、企業の実務の勉強かと思われるかもしれない。それは大事なことではあるが、決してそればかりではない。社会との関わりの中で、教育を位置づける、これが実学だと考えている。
 例えば、昨年も神戸のある大手洋菓子会社に協力してもらって、その会社に対して長期戦略の提案を行った。また、数百人の学生たちを集めて、各地の地場産業メーカーや大手企業と組んで、Webを用いた商品企画コンペを催した。それを通じて、実際にいくつもの商品が誕生した。
 自分たちの考えを現実の場で生かすことができる、負けたくないライバルがいる・・・。そういう場だと、学生の意欲はいやが上にも盛り上がる。商品企画のために、その商品を使っている消費者の性格や好みの調査、販売現場での観察、商品設計、試作品づくり、そして実際の企業との製品仕様に関する交渉と、実際企業で行われる新商品開発とプロセスは変わらない。その中で、どういう調査が良いのか自分たちで考える。わからなければ本を読む。市場調査に必要になる質問票の作成やその回答結果の統計処理も必要に迫られれば、勉強して習得する。学生たちに、自然に学ぶ姿勢が生まれ、必要な情報リテラシーも自分たちで身につける。
 こういう授業を見ていると、「教員が一番先に教えなければならないことは、何か」が見えてくる。それは、『学ぶことの楽しさ』である。そして、学生の心の中に育てなければならないことは、『学ぶ意欲』なのである。
 学生たちが、『学ぶ意欲』をもち、『学ぶことの楽しさ』を知れば、たとえ授業の時間が足りなくなって教え足りないところが出て来ても大丈夫。学生たちに、足りない点があることを伝えれば、彼らは彼らの自主的な努力の下にその不完全さを補っていく。
 改めて思うのは、これまでのやり方であるところの一方向的な授業において一番伝えにくいのは、実はこの『学ぶことの楽しさ』なのである。


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