人材育成のための授業紹介●哲学

遠隔通信を活用した生命倫理の授業

田坂さつき(立正大学 文学部哲学科准教授)

峰内 暁世(立正大学 情報メディアセンター)

1.はじめに

 科学技術の進歩により生命操作が可能になった現代、体外受精や臓器移植、尊厳死などは、次第に身近な倫理問題になりました。このような生命倫理の問題は、人間の幸福とは何か、死をどのように考えるか、という哲学的な問と深く関わります。一方、近年、臨床現場の当事者との対話を通して、このような倫理問題を考察する臨床哲学が注目されています。本学文学部哲学科の授業科目で、筆者は、臨床哲学的な手法を取り入れた倫理学の授業を哲学科の4年間のカリキュラムの中で、段階的に行っています。
 当事者を講義に招いて質疑応答する授業が最近行われていますが、大教室で学生から遠い教壇で当事者が講演するだけでは、学生にとって臨床現場は遠く、当事者は「ある人」という三人称の存在に留まります。しかし、当事者の二人称同士の対話の中に学生が招かれ、さらに学生と当事者間の対話が深まると、生命倫理の問題は「かけがえのない人」が直面する現実的な問題として捉えることができます。臨床哲学が目指すのは、このような関係性から、対話により哲学的な問題を考察することです。筆者は、授業の中でインターネットを介したリアルタイム通信(以下、遠隔通信)を、様々な形態で行うことにより、複数の当事者と学生たち相互の二人称の対話の回数を増やし、当事者と対面したときに、臨床哲学的な対話が成り立つことを目指しています。本稿では、このような目的で行われた簡易コミュニケーションツールを活用した遠隔授業の実践を報告します。

2.大教室と複数の在宅の当事者との遠隔授業(1年生2年生対象科目)

 「倫理学の基本諸問題」は、1年・2年生対象の哲学科選択必修科目で、受講生は例年150名前後です。15回の授業の中では、出生前診断、中絶、臓器移植、尊厳死や安楽死など具体的な問題も扱います。学習は、まず哲学の文献から学ぶ第一段階、ドキュメンタリービデオ教材から学ぶ第二段階、当事者から聴く第三段階、当事者も含めて対話する第四段階、授業全体をまとめる第五段階があります。第一段階と第二段階では、学生が対話により考察を深めます。まずサイレントダイアローグというペーパー上の対話、次に2名から3名によるグループ対話、そして全体の対話、という仕方で進行します。大教室で教員が問いかけると何人も手を挙げて意見が言えるようになる頃、当事者に授業協力を求め、第三段階、第四段階に移行します。そして、障害や病ゆえに大学に来られない当事者との対話は、遠隔通信で行います。
 まず、その中でも特徴的な、第三段階・第四段階を同時に遠隔通信によって実施した授業を紹介します。平成20年から毎年、進行性難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)で人工呼吸器を装着している、ALS協会千葉支部役員舩後靖彦氏を大学に招き、講演をお願いしています(第三段階)。舩後氏は人工呼吸器装着のために発話での講演はできません。ほぼ全身麻痺なので、顔面センサーなど微細な動きを捉える装置でパソコンを操作し、意思伝達装置「伝の心」で数ヶ月かけて原稿を入力します。そしてそれを、パソコンの音声読上げ機能を利用して音声化します。写真1の右スクリーンは、「伝の心」の画面が投影されています。
 さらにこの授業の中では、和歌山在住のALS協会近畿ブロック会長(患者)和中勝三氏と会員(患者)林靜哉氏、大阪在住の会員(患者)久住純司氏との遠隔通信による対話も実施しています(第四段階)。大学も遠隔地もパソコンに無償の簡易コミュニケーションソフト(Yahoo messengerとSkype)をインストールして、リアルタイムビデオで、4箇所相互の遠隔通信を行います。いずれも実際に臨場感のある様子を送受信するためには、USB接続のWebカメラ等の低性能のビデオカメラでは不十分でした。そこで、ハンディカム(ズーム40倍)のAV出力をUSB接続のビデオコンバータを介して、パソコンに取り込むことによって、高品質なビデオ画像を得ることができました。
 授業中の対話では、顔面センサー等でのタイプ入力の方に、テンポの早い一問一答で応答を求めない配慮が必要なため、同病の複数の方々と一対多のChatができるYahoo Messengerを使用しました。Yahoo Messengerは、3台以上のパソコンをカンファレンスする機能があり、複数参加者でも利用でき、ベットから見える大きな文字に指定してChatをすることもできます。ただし特殊なポートを使用しているため、大学のファイアーウォールを通過できないことがあり、画質もあまり良いとは言えません。写真1の左のスクリーンは、林氏、和中氏、久住氏のビデオ映像とChat画面です。

写真 1 大教室での遠隔授業の様子 (左)ビデオ映像とチャット画面、(右)意思伝達装置の画面
写真 1 大教室での遠隔授業の様子
(左)ビデオ映像とチャット画面、(右)意思伝達装置の画面
図 遠隔授業のイメージ
図 遠隔授業のイメージ

 ALSは人により進行も症状も異なります。久住氏とは音声によるSkypeで遠隔通信ができます。Skypeは、フリーソフトの中でも安定して動作するフリーソフトの一つです。以前は一対一通信のみでしたが、現在では複数の参加によるテレビ会議方式の利用が可能となりました。回線の状況によって使用する帯域を自動調整するため、画像が表示されずに音声のみに限られてしまう場合もありますが、通信は比較的安定しています。当日は、哲学の関連科目で聴講希望があったので、Skypeで映像を別教室に送りました。このような大掛かりな授業の実現は、本学情報メディアセンターと協働で企画して検証を積み重ね、試行錯誤した末の実施でした。
 この日の講演のテーマは「生きる」です。授業構成は、最初に教員による授業の狙いの説明、次に舩後氏の活動に関するビデオ映像、その後40分程度の舩後氏の講演でした。その間、遠隔通信で授業を聴講している関西の患者さんはChat画面でコメントを送ります。林氏からは「舩後さんの言うとおりです」というChatの応答もありました。それから、学生の質疑とChat画面の質疑に対して、舩後氏は、透明文字盤(コミュニケーションボード)を介して応答します。学生からは、舩後氏がALSを告知されたときの心境と関連して、挫折の回避方法の質問がありましたが、舩後さんからは「諦めるな」という主旨の応答がありました。最後に、関西の患者さんからのメッセージを紹介し、学生と舩後さんの対面交流で授業が終わります。舩後さんによる言葉は印象深く、この講演が生命倫理を卒業論文のテーマとするきっかけになった、という学生が毎年います。

3.小規模授業での遠隔通信と対面での対話(3年生・4年生対象科目)

 選択必修科目「哲学演習」(3年生対象)や卒業論文準備のための「上級演習」(4年生対象)でも遠隔通信を利用して、関西のALS患者三氏や、社会福祉法人訪問の家「朋」「径」(横浜市栄区)と遠隔通信も行います。遠隔通信を通して、お互いの近況や趣味などを報告しあう時間もあり、「お父さんみたい」という感想も出るようになり、次第にお互いの心理的な距離が縮まってきます。
 一方、生命倫理は文学部哲学科だけではなく、医療や福祉などの専門領域との交流が必要ですが、本学では社会福祉学部との連携は重要になります。大崎キャンパス文学部田坂ゼミでは、大阪の久住氏とのSkypeによる遠隔通信と同時に、熊谷キャンパス社会福祉学部保正ゼミと遠隔授業システムを利用した合同授業(写真2)を行いました。

写真2 遠隔授業システムを利用した合同授業の様子
写真2 遠隔授業システムを利用した合同授業の様子

 3年生・4年生になり遠隔通信による対話の回を重ねると、お互いの心理的な距離が縮まり、短時間の対面交流でも、濃密な時間を過ごすことができます。臨床哲学的な視点から生命倫理の卒業論文を書くことを希望する学生は、夏休み、訪問の家「朋」「径」で、重い障害のある人と3日間過ごす体験実習を行います。そして、頻繁に遠隔通信をしているALS患者との対面ワークショップを、他大学の学生も招いて実施します。その中で、和中氏の自宅を訪問してパソコン操作を見学し(写真3)、御家族からも呼吸器装着について話を聞きます。また、久住さんとの対面ワークショップでは、「尊厳死とは正しい選択なのか」「家族はどのような存在なのか」という踏み込んだ対話も行われました。いずれも遠隔通信を利用した授業を経ていなければ、話題にしにくい内容です。

写真3 自宅訪問でのパソコン操作見学の様子
写真3 自宅訪問でのパソコン操作見学の様子

 学生たちは、遠隔通信、体験実習、対面ワークショプを経て、それぞれの生命倫理のテーマに即して、卒業論文を執筆します。執筆中の論文は、メールで訪問の家「朋」「径」職員および、ALS患者三氏に送付し、遠隔通信授業やメールで助言等を受けながら完成させます。授業内での限られた時間に実質的な対話を行うために、事前にメールで学生から質問などを送ります。患者は、回答や学生へのメッセージを予め準備します。さらに、時間をかけて検討したい課題については、掲示板を利用した対話も学生と教員の間で行います。

4.まとめ

 以上、哲学科の4年間の中で、講演から遠隔通信、対面交流へ至る過程をたどってきました。学生のポートフォリオには「患者さんと対面するときに変に気を使い、憐れみに似た感情を抱いていた(原文)」が、遠隔通信や対話を経て「無意識に患者さんに気を使わなくなった(原文)」とあります。この過程において、簡易コミュニケーションツールを活用した遠隔通信は、当事者との心理的な距離を縮め、対話を深める重要な役割を果たしていると思われます。学生たちは、臨床現場の当事者と二人称の関係の下で、生命倫理の問題を考えています。このような授業は、技術面でも、当日の授業運営においても、一教員だけで実施するのは不可能で、遠隔通信に関する設備や授業支援体制の整備が不可欠です。
 本学では、文部科学省のサイバーキャンパス整備事業により、熊谷(埼玉県)と大崎(東京都)のキャンパス間を結ぶ大規模な遠隔授業システムを導入しました。その一方で、Skype等のフリーソフトや無料サービスを活用した遠隔授業を想定して、平成22年に大掛かりな遠隔システムを減らして簡易システムを導入し、「どこでも遠隔接続して利用空間を拡大し、離れていてもコミュニケーション授業が可能」な環境を整備しました。しかし設備が整っても、遠隔通信授業を実施するための知識や技術を教員は必ずしも持っていないため、実施には技術面のサポートが必要です。そこで、本学では、平成21年から授業のICT活用を促進するため「授業支援室」が設置され、機材の貸し出しや操作に関する質問を受け、教材作りのアドバイスをする体制が整いました。支援室スタッフは、授業中でも教員が電話すれば駆けつけて補助します。
 ご紹介した授業は、このような体制の下で、平成20年から教員と職員が協働で企画して実施してきました。遠隔通信の品質向上や、授業の進め方の改善などの課題はありますが、今後も教員と職員と協働で授業改善を行い、他大学との連携もさらに進めていきたいと考えています。


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