生物学の情報教育

インターネットを利用した生命科学の情報検索


矢倉達夫(関西学院大学理学部教授)



1.はじめに

 関西学院大学理学部で独自に行っている情報教育は数学系の専門科目以外には「コンピュータ演習」という科目名で1年生を対象としたものが開かれているのみである。この科目ではプログラミングの初歩的な事柄についての実習を行っている。
 専門的な応用も含めた実践的な情報教育の必要性は良く認識されているが限られた人数の教員ではとても手が回らないのが現状である。
 本学部に限らず、理系の学部では卒業研究に取り組むときには、コンピュータの操作が必ず必要となるであろう。それにもかかわらず、研究に直結するような“役に立つ情報教育”を系統的に行っている大学は少ないのではないだろうか。以下に私の研究室で卒研や大学院の学生が利用しているインターネットについての例を示しながら、生物学における情報教育の必要性や今後の課題などを考察する。


2.生物学におけるインターネットの利用

 生物学はもともと博物学より由来した学問である。そのため古典的な生物学は生物の様々な特徴を網羅することを主とした目的としていたので、野外で生物の生態を観察したり、顕微鏡などを用いた実験や生理学的な研究が行われていた。この時代ではコンピュータを用いるとしてもせいぜい統計学的な処理を行う程度であった。ところが分子生物学が急激に発展したため、大量の情報をコンピュータを用いて処理しなければ研究を先に進められないような状況となってきた。遺伝子工学の急速な普及によって多数の遺伝子が分離され、その塩基配列が明らかになってきたのである。
 今日では毎日世界のどこかで遺伝子配列が決定され、世界的に連携しているデータベースに登録されている。1995年現在で45万件が登録されており、年2倍の勢いで増加している。
 遺伝子の配列情報は、生命科学の全分野の根幹をなす知識である。世界のどこかで新しく登録されたデータを瞬時に参照できるインターネットは、このように膨大な情報を常にチェックしなければならない生命科学では不可欠なシステムとなっている。


3.実践的情報教育の必要性

 生物学の守備範囲が飛躍的に拡大し、生命科学と総称される領域の中枢を占めるようになったために、あらゆる分野で生物学の知識が必要とされるようになった。その結果、全世界的規模での生命科学コンピュータネットワーク(ゲノムネットなど)が構築され、利用されるようになった。このインターネットのWebサイトで利用できるサービスは実に多彩で単に遺伝子配列の検索を行うだけではなく、タンパク質の立体構造情報や機能的部位情報を検索したり、また核酸の塩基配列やタンパク質のアミノ酸配列の比較などを行って重要な配列を抽出することや遺伝子進化に関する情報を得ることもできるようになっている。しかもこれらは無料で利用できる。それ以前は数十万円もするソフトやデータベースを購入していたことを考えると隔世の感がある。このように便利なサービスも使いこなせなければ全くの宝の持ち腐れである。
 生物学では、遺伝学や細胞学などと同様に、情報機器を用いた遺伝子やタンパク質の解析手法が学部教育でも教えられるべきものと私は考えている。しかし、大半の大学では早くても卒業研究、せいぜい大学院に入ってから始めて学ぶという程度と思われる。 私の研究室においても卒業研究に入って後、研究を行いながらぶっつけ本番で利用方法を学んでいくという方法を採っている。インターネットで日常的に使っているのは文献検索である(http://www.ncbi.nih.gov/PubMed/)。また、遺伝子を分離するための予備調査や、得られた遺伝子の配列に関する情報検索や解析でWebサイトのサービスをしばしば利用している(http://www.ddbj.nig.ac.jp/やhttp://www.embl-heidelberg.de/など)。しかし、系統的な教育を行わず自主的な学習に任せているので、学生の熱心さによって、その習熟度に格段の差ができてしまっているのが現状である。そのために、研究の深さ(理解度)にも大きな差が出ることがある。


4.インターネット活用にあたっての問題点

 学部教育での系統的な情報教育の必要性が痛感されるが、問題点は多々ある。
 まず学部教育でインターネットを利用した授業を行うとなると、インターネットに接続されており、また高速作動する高性能パソコンを多数導入する必要がある。このための費用はもちろん、ネットワークの管理上の問題(多数の学生が同時に長時間アクセスするために学内の他のシステムにも遅延などの影響がでる)が生じるかもしれない。これを回避するためには、研究用に市販されているデータベース付きのソフトを用いるという方法もあるが、高価なため多数の教育用パソコンに導入するのは困難である。
 プログラムの操作に関しては知識がなくても、データを得ることはできる。しかし、そのデータの意味を理解し、十二分に活用するためには、勉強をする必要がある。インターネット上にはトレーニングプログラムなども紹介されているが、日本では書籍などもまだ少ない(ゲノム関係では「ゲノムネットのデータベース利用法」高木、金久編、共立出版が出版されている)。また、これらインターネットのWebサイトを利用した情報教育の実施も近い将来、困難になるかもしれないと危惧する点がある。インターネットはそもそも、科学者が情報交換するために考案されたものである。そのため研究に用いるデータベースや解析手法は、共有の財産として研究者間で利用し合うという精神が根底にあるので、研究所や大学のサイトの多くが外部の研究者にも無料で公開されている。しかし、データの量も膨大になって運営に多額の費用がかかるようになり、また営利目的のためにも盛んに利用されるようになってきたためか、有料化の動きもあるようである。これからなんらかの形で生物学の情報教育に取りかかろうと考えている大学も多いと思われる。受験生の減少で経営が苦しい私学としては、安価であっても質の高い教育を行うよう日々努力しているが、こういうきわめて有用なサイトが有料化されると利用が困難となってくる。また、Webサイトのサービスは本来研究用であって、教育用に開かれているものではない。教育目的のアクセスが膨大になれば、当然本来の目的での利用に影響が出ると思われるので、大規模な利用は慎まなければならない。インターネットに接続しない状態で十分に基礎訓練した後に、インターネットで短時間の実習を行うという工夫が必要である。


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