附録

The Virtual University
By Carol A.Twigg and Diana G.Oblinger

A Report from a Jaint Educom/IBM Roundtable,Washington,D.C.
November 5-6,1996

翻訳は、米国のEDUCAUSEの許可を受けて広報委員会翻訳資料分科会が行ったもので、ジャーナルVol.7.No.2より3回にわたって掲載します。



これらの趨勢(すうせい)が高等教育にどのようなインパクトを与えるか

変化する学生人口統計:高等教育を受ける学生人口統計の変化は、大学に新たな要求を突き付けている。500万人の就労成人が現在アメリカの単科大学や総合大学に、パートタイムの学生として在学している。しかしこの数字は、大学教育を受けたいが授業時間帯での都合がつかない、大学キャンパスに通う便がない、家族の面倒を見なければならない、商用で方々に出張しなければならない、身体障害があるなどの理由で、従来の大学に通えない成人が多く存在していることを度外視している(Vigilante, 1994)。

 勤労学生は、学生生活と通常の生活や職場での優先事項とのバランスを考えなければならないため、パートタイムで通学する方を選ぶ。寿命が長くなり、就労期間が長くなり、都市部が拡大し、人口がさらに多様化するという事情のすべてが高等教育に影響を与える。各人が教育のリソースや従来の教育に代わるものを、とりわけキャンパスの外でもっと利用するようになると予想される。

 州知事や他の政策立案者達は、通常の学生よりも年齢のいった勤労学生にとって、高等教育が経済的にも物理的にも受けやすくなるように改善する努力を行う一方で、今日多くの職種が既に継続的な再訓練を必要としている状況に対して、大学がもっと柔軟に対応するように強く求めている(Blumenstyk,1995)。

高等教育機関は、学生に対する柔軟性を増すこと、例えば、年中行事一覧表、在学年数、学力の基礎用件などでこうした趨勢にもっと適切に対応し、そこから見返りが得られるようになるくらいの努力を払うだろうか。

強まる要請:学生人口の統計だけ見ても、今後の10年間に従来の年齢の大学生が200万人程度増加することが予想される。これは僅か10年の間に14%の増加ということになる。さらに技術力の強化や教育継続を望む年長の勤労学生の増加を加えると、その数ははるかに大きなものとなる。マイケル・ドレンス(Michael Dolence)とドナルド・ノリス(Donald Norris)は、労働人口から派生する新たな学習志望者が、西暦2000年までにフルタイムの学生数に換算して、合衆国では2000万人以上、世界的には1億人以上が加わってくるものと予測している。この爆発的な教育需要の増大により、高等教育は新しい教育システムと教育実施方法を模索せざるを得ない状況になっている。

こうした学生人口の爆発的増加に社会が可能な形で対処するために、バーチャルユニバーシティーはどのように役立つであろうか。

情報の爆発的増大:世界中で新情報の分量が極めて急速に増加しているため、西暦2000年の大学新入生は一年の間にその祖父母達が一生で遭遇したよりも多くの新データに曝されることになる。事実、7年ごとに情報量が倍増しており、いまでは日々、一万編の科学論文あるいは科学記事が出版されている(Forman, 1995)。

 情報の増大に対して高等教育がこれまでに採ってきた対処法は、その教育機関を拡張することだけであった。すなわちさらに専門分野を増やすこと、もっと学科数を増設すること、教授陣のさらなる専門分化、授業科目の増設、そしていうまでもなく教員の増員、蔵書数の増冊、教育施設の拡張といったものである。今日のひっ迫した財源と近い将来に高等教育が利用できそうな財源の程度を考えると、こうしたタイプの拡張が可能な時代は終わったことが明らかである。

情報量の爆発的増大は、バーチャルユニバーシティーのカリキュラムや教授法に対してどのような影響を与えるのだろうか。どうすれば学生達が自発的に学習するように仕向けられるであろうか。学生達に個々の内容ではなく学習の仕方そのものを教えることができるであろうか。

グローバル化:世界経済のグローバル化により、カリキュラムの国際化がますます重要視されるようになった。これはまた研究面や教育面で、世界中の官庁や教育機関同士が新たな協力関係を結ぶチャンスを作り出す一助となっている。この10年来、カリキュラムの国際化を図ろうという議論はなされていたが、インターネットが爆発的に普及し、国際間の境界がますます互いに入り組み合うようになったこの2、3年の間に、そのことがにわかに必然性を帯びてきた。

バーチャルユニバーシティーの学生市場やその知的リソースにとってグローバル化の持つ意義とはどのようなものであろうか。グローバル化はわれわれの大学にとって新たな学生源となるのであろうか、それともこれまでわが国に惹かれてやって来ていた外国人学生を失う方向になってしまうものなのであろうか。

生産性:高等教育の予算が削減され、同時に入学数が増加すると、単価あたり、できるだけ多くの学者を獲得する手段を探さねばならなくなる。高等教育にこれまでより高い生産性を求める声が、過去のどの時代よりも頻繁に聞こえてくることになろう。大学はその使命を遂行するための新たな方策を見出さねばならないとともに、限られた額の共有資金をめぐって他大学と競い合っていかねばならない。アカウンタビリティーに焦点を合わせると、ビジネスモデルを導入させようとする圧力がかかってくるが、その場合には赤字を出さないという点がより重要視される。

 教育機関はこのような圧力を受け続けることであろう。経費の節減をしたり、重複部や、ユニークな選択枝ながら経費がかかりすぎると判定された部分を場合によっては廃棄したり、他の合理化案を験証したりということが、これからもずっと州議会や高等教育管轄官庁の大きな関心事となるはずである。

 ほとんどの大学が、生産性を高める一方で、レベルの維持あるいは向上を図りたいという共通した願いを持っている。レベルを維持していくには、大学の学術的、社会的な価値に多くの配慮をする必要性がある。

 教授陣の生産性は確かにこの問題の争点の一部分ではあるが、これからは学生の生産性の方に関心が集まることになろう。それに伴い教員とのコンタクト時間数や出席時間数といった従来の基準ではなく、もっと学習成果をみて評価を行うような方向に変えていこうという傾向も強まるものと思われる。

われわれの提起するバーチャルユニバーシティという構想は、生産性向上を求めるこの新たな要請をどう考慮しているのだろうか。いかにすればわれわれの大学の学術的、社会的性格を失うことなく生産性を上げられるのだろうか。すべての人に受け入られるようなものにしたいと思っているのか、それとも市場のニーズや自分達の強い分野を生かして教科課程を調整する術を会得すべく努めていくべきなのだろうか。

質的レベルの新たな定義:学生は大学時代のみならず生涯を通じて、技能開発の面で目立った支援をしてくれる学習環境にできるだけ身を置こうとするであろう。実際、彼らは初めて就職する際のチャンスを大きくするだけではなく、その職をその後も維持できる可能性を増してくれるようなカリキュラムを率先して選ぶようになってきている。

 高等教育を受ける人々はますます洗練されてきており、アカウンタビリティーと教育内容の質的な高さの両方を求めるようになっている。パトリシア・コーベル-ジャルボー(Patricia Kovel-Jarboe)が指摘したように、彼らは蔵書数や学生/教員の比率、教員が獲得した補助金や受託研究の件数あるいは金額等で代表される資源の豊潤さという、高等教育で質的レベルを測るのにこれまで用いられてきた基準ではなく、インプルーブメントという動向、いいかえれば顧客のニーズを満たせるかどうかという面からの質というものを定義するようになりそうである。こうした学生達は、高等教育のプロバイダー間に競争が増えることで、自分達にとって有利な状況になると期待している。また彼らは競争価格(授業料)の高低と内容的な違い(質)により、限定されたプロバイダーだけがマーケットに残れるようになるものと予期している。

バーチャルユニバーシティー構想は質的レベルに対する新しい定義にどう対応するか

より競争のある環境:学生達はどの大学に通うかについて、以前よりも厳しく吟味精選した上で購買力を行使している。大学は補助金や学生の獲得のために競争相手の有する戦略的地位を手中に収めようと競い合う。したがって伝統のあるなしにかかわらず、大学間の競争が激化するものと予想される。大学は学生主体あるいは消費者主体のマーケットで、なんとか競争上の優位性を得たいと腐心しているところである。

 技術の新たな進歩とネットワークの爆発的成長により、高等教育はその地理的主導権、すなわち地の利を徐々に失いつつある。学生は大学を地理的条件よりも提供内容、便利さ、あるいは学費の多寡に基づいて選ぶようになるであろう。こうした競争はなにも合衆国や北米に限ったことではなく、世界的な拡がりを持っている。

 それとともに産業界と大学間、あるいは教育機関の間でパートナーシップを結ぶという進み方にも関心が集まるようになる。遠隔教育コンソーシアム同士やK12/大学間で結ばれたパートナーシップはその良い例である。

ネットワーク化された新たな世の中で、しかも他大学に対して持っていた優位性のいくつかを喪失しつつあるこの時期に、各大学は自分が他に対してどのような点で優位に立つかを、いかにして判定したらよいのであろうか。高等教育はこの情報化時代にあいも変わらず伝統的な構造と教育方法にしがみついたままで、社会に役立つ機会を掴みそこなってしまうのであろうか。

新企業の創生:教育者達との適切な協同関係を組めなかった場合、企業によっては自分で学位授与あるいは単位認定のための機構を作ってしまったところもあるが、それらのいくつかはそこの従業員でない者にも役立っている。高等教育機関は訓練や単位認定、あるいは教育や学習の領域におけるそれぞれの役目をもっと明確に定義する必要性に迫られている。

 さらに加えて、授業や学生への業務サービスはまったく行わず、単に修得単位の貯蔵場所を提供し、学生が所定の修了条件を満たしたら認可された学位を授与するといった、いわゆる履修単位銀行と名付けられるような試験的試みもこれまでにあった。キャンパスは持たないが、あちらこちらに点在する教授陣を持っている大学、あるいはキャンパスも教授陣も持たない大学というものも出現した。

 高等教育が競争激化時代に入ると、大学の経営陣や評議員会は改善策を取り入れることでどの程度まで他大学に対する優位性が獲得できるかを策定するために、運営面の構造や運営方針の決定過程に関する見直しを行うようになる。大学内部でこれらの問題に取り組みつつあることを示すいくつかの現われとして、全般的な品質管理、学部や学科の結合、文字どおり何百とある業務の遂行に新手法を採用するといったことが見られる。

どんな新手法で高等教育業を運営すればよいであろうか。


キャンパス中心のモデルから消費者中心のモデルへの移行

今日われわれが知っているアメリカの高等教育のシステムは、これまで100年以上にわたって存在してきたものである。歴史的に見れば、学部教育は各学生が家庭や社会環境や職場という外部の環境から隔離された形で、キャンパスに4年間在住することを前提にして行われてきた。ジョージ・コニック(George Connik)はこうした形態を、キャンパスあるいは教室という形で場所的に束縛されると同時に、プロバイダーが組んだ年度予定表や教科の特定なスケジュールにしたがって授業がなされるという意味で、時間的にも束縛される「キャンパス中心システム」と表現した。
 キャンパス中心モデルは、学生がキャンパスであらかじめ設置開講されたひとそろいの授業科目やカリキュラムから選択するということを想定している。内容の管理はプロバイダー、すなわち教授陣や大学側の手に握られている。入学選抜や経済支援、あるいは履修登録の手続きといった運営管理機能は、学生側のニーズにあまり配慮せず、大学側の便宜を中心に置いて設定されている。

 新通信技術、学生人口統計の変化、大学周辺に居住するための生活費の高騰、生涯教育の必要性といった条件が重なり合って、そうした一世紀余もの年齢を重ねたシステムの土台がどんどん腐食しており、学習者、教師、情報リソースの間の関係が変わりつつある。こうした事情に適応できないか、あるいは適応しようとしない者は、自分のいる地位を喪失することになるであろう。情報の急増と通信技術の急速な進歩は、授業方法の管理を伝統的なプロバイダー、すなわち高等教育機関とその教授陣の手からもぎ取って、消費者の手に移すことを可能にしている。こうした変化の現われとして、学生側の選択の幅が広がることが挙げられる。

 高等教育の場所は教室やキャンパスから職場、家庭、図書館、さらにはネットワークへと移りつつあり、学生達は時間や場所にとらわれることなく学習できるようになった。通信技術はシンクロナスな(皆が同時に行う)学習体験からアシンクロナスな(各自が異なる時間帯に行う)学習体験へ移行することを可能にし、一週7日間、一日24時間にわたって学習することを可能にした。しかも学習者はネットワークを利用することにより、あらかじめ定められている授業時間帯ではなく、自分に都合の良いときを選んで同輩や教師や外部の専門家、あるいは情報リソースに対話的な形で接触することができる。

 教科自体も以前とは変わってきた。内容は書物や黒板を超えて動画やテキスト、あるいは音声を含んだものになった。ネットワークと対話式マルチメディアは、学習内容のプロバイダーに関してわれわれが従来持っていた概念と、誰をプロバイダーと見なすかというわれわれの見方の両方を変えつつある。かつては教育機関にしか存在しなかった学習リソースが、いまやマルチメディアソフトやその他のコンピュータ支援教材として小売店で入手できるのである。消費者は学習用品を独自に購入でき、自分の都合の好いときに学習ができる。インターネット、あるいはそれより規模は小さいにしても有線や衛星を利用したシステムといった、いわゆる遠隔学習技術により、学習者が望んだときに望んだ場所で教育を受けられるようになりつつある。消費者全体では教育に毎年何百万ドルというお金を使っている。そうした購買力は今日学習を管轄している人達に大きな影響を与えることになろう。

 同時にまた、伝統的な教科課程や教育管理業務も、この消費者に焦点をあてた環境に適合するように変わりつつある。政策担当者達は色々と重複している経営管理業務や学生に対する教務サービスのために支払われる給料が果たしてそれに見合った教育効果をあげているかどうか疑問を持ち始めている。実際のところ、コンピュータ技術を利用すれば大学のシステムは財政支援担当局や入学選抜担当局を合理化することができる。たとえばメイン州の離島に住む学生は、まったくキャンパスを訪れなくともこの技術を通じてそうした業務サービスをすべて受けることができるはずである。より低コストで業務を遂行する模範ケースが出現しつつあることから、州自治体や他の政策担当機構は、協同し合い、資源を共有し、リスクを減らすための新たな道を構想している。

 キャンパス中心の学習モデルから消費者中心の学習モデルへの移行は加速している。潜在的なプロバイダーの数を増やすことにより、内容の点、授業科目の点、あるいはカリキュラムの点でも、消費者の選択幅はますます広がりつつある。地理的、社会的、政治的境界はますます関与しなくなり、伝統的な大学の支配力が弱められ、もっと消費者の要望に応えてくれるプロバイダーがチャンスを得るようになる。ウエスターン・ガバナーズ・ユニバーシティー(Western Governors University, WGU)やメイン州教育ネットワーク(Education Network of Maine, ENM)のような新しい種類の組織が、消費者のための仲介役として既に出現しつつあり、どのような種類の選択ができるか消費者が知るための手助けをしている。この新たな時代に、高等教育のシステムは学習者の要望に応えるように適合していく必要がある。消費者達は高等教育に対して容赦ない影響力を及ぼすことであろう。キャンパス中心モデルが成り立つ時代は終わりを迎えようとしている。(次号に続く)


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