体育学・スポーツ科学の教育

ホームページを利用した授業の試み


久 保 正 秋(東海大学体育学部教授)



1.はじめに

 スポーツ科学の教育、特に自然科学系の領域では、運動動作の3次元的解析などにコンピュータを活用し、人間の「動き」や「力」をよりビジュアルに、分析的に学生に提示し、人間の運動というものを理解させようとしている。しかしながらスポーツ科学には、スポーツを文化現象として捉え、それを哲学、教育学、社会学などの観点から考えようとする領域もある。この人文・社会科学系の領域の教育においてもコンピュータの活用が可能なのである。
 例えば「スポーツ哲学」の授業。「スポーツ」と「哲学」と「コンピュータ」、これらは次のように結びついていく。「スポーツ哲学」の授業は、スポーツ現象を哲学的に考察することを目指したものである。学生に求められることはスポーツ現象を深く「考える」ことである。しかしながら従来の授業は、「考える」ための「知識」の伝達に終始し、学生たちが「考える」ところまで到達しないうちに終業のベルの鳴ることが多い。「哲学」の授業が「哲学」しないままに終わるのである。この「知識」の伝達を有効に、かつ効率よく行うことができれば、学生たちは「考える」手立てと時間を得ることができる。つまり、スポーツを「哲学」することができるのである。この「知識を有効かつ効率よく伝達する」という処にコンピュータを教育的ツールとして活用するのである。
 ここでは、教育的ツールとしてのコンピュータを用い、ホームページを利用した従来の講義とは異なる形式の「スポーツ哲学」の授業の試みを紹介したい。


2.「スポーツ哲学」の授業におけるホームページ利用

 「スポーツ哲学」の授業はパソコン(NEC PC 9821 Ra23-N30)が50台あるコンピュータルームを使用し、受講生約50名で週1回行われる。本授業がどのように展開されるのかについて受講生A君を例に紹介すると、次のようになる(図1参照)。
 授業が始まり、A君は「スポーツ科学コースホームページ」−「授業のページ」−「スポーツ哲学のページ」を開く。今日のテーマは「スポーツと宗教」。その中のトピックの一つ「日本的技術観と宗教」を開くと、画面には「ところで、日本のスポーツって独特のところありますね。−試合の前・後に挨拶−したり、歯くいしばってやったり。それって、−宗教と関係−がありそうなんです」とある。A君は「試合の前に挨拶するのは当たり前だ、でもアメリカのNBAなんかで挨拶してるとこなんて見たことない」というようなことを考えながら、−宗教と関係−をクリックする。そこには「日本のスポーツには禅思想に影響された芸道の考え方があり、厳しい修行や真剣さが求められる」ということが説明されている。「だから、スポーツはあそびではない、と言われるんだ。でももともとスポーツという言葉は・・・」。A君はスポーツの語源について教員に質問した。

A君が「炎のランナー」や「柔道と柔術の違い」の説明を読みながら、スポーツと宗教についていろいろと考えていると、教員から討論会に入る旨を告げられた。A君は「考えてみよう」を開く。そこには「格技実習拒否事件」を考えてみようとある。先程読んだトピック「ある実際にあった出来事」にでてきた、宗教上の理由で剣道の授業を拒否した高校生の話だ。これが今日の討論のテーマとなる。「自分がその体育教師だったらどうするか、剣道と宗教とはどんな関係だっただろうか」と、A君はもう一度「宗教の影響」のページに戻り、自分の考えを纏め始めた。

 討論が中だるみし始めたとき、教員が「一切の暴力を否定する宗教にとって、やはり剣道は暴力なんだろうか」と問いかけた。A君は「そんなことはない。柔道と同じように剣道は剣術とは違い、単なる武技ではなく、ボクシングと同じように暴力ではない。何かひとこと言っておかなければ」と考え、躊躇しながらも発言のために手を挙げた。

図1 授業例(スポーツと宗教)

3.「ホームページを利用した授業」のねらい

 この「ホームページを利用した授業」には、単にコンピュータを操作したり、「知識」の伝達の効率化を計ることのみではなく、以下にあげるねらいがある。

(1)学生自らが「知識」を得る(学ぶ)という姿勢をつくる
 従来の講義形式の授業は、「話す」−「聞く」という関係において成立している。「教える」−「学ぶ」という教育の基本形である。しかしながら、この「聞く」という行為はともすれば「聞かされる」ことになり、講義する者が一方的に「話す」ことで終わることにもなる。授業中の「私語」の多さや居眠りする学生がいることはそれを物語っている。ここでは「教える」−「学ぶ」という関係が消滅している。すなわち教育ではなくなっている。それに対して「ホームページを利用した授業」では、学生自身が「知識」を「探す」という行為によって授業が始まる。教員は学生の質問に個別に答える。ここに「学ぶ(探す)」−「教える」という関係が成立する。そのことによって、学生自らが「学ぶ」という姿勢をつくろうとするものである。

(2)学生が各自のペースで学習し、「考える」こと
 従来の「話す」−「聞く」という授業では、その「話す」という行為に「聞く」という行為を合わせなければならない。よって、その「話す」ペースに合わせて「聞く」ことができない学生が出現することになる。また、そのペースに合わせて「聞く」ことができたとしても、「話」を聞きながら先ほどの「話」をもう一度じっくり「考える」ことは困難になる。つまり講義形式の授業では、授業中のフィードバックが難しいと言える。「ホームページを利用した授業」では、学生自らが「探す」という行為によって学習するため、自分自身のペースで進めることが可能となる。また何回もフィードバックして再確認し、深く「考える」ことができる。このことによって、学生が「考える」ことを可能にしようとするものである。


4.「ホームページを利用した授業」の今後

 この「ホームページを利用した授業」の試みは学生にかなり好評であった(受講者の70%が講義形式より良いと評価)。授業中の私語もほとんどなく、居眠りする者もいない。討論会においても予想を上回る数の発言があった。しかしながら、この試みは従来の授業形式のリニュアールにすぎない。学生はプログラムの制作者によって意図された「閉じられた回路」の中を彷徨しているだけであり、本当の意味で「学ぶ」ことになってはいない。この「閉じられた回路」を教育的意図のもとに「開かれた回路」へとシフトしていくこと、これが今後の課題である。


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